| 大学生協に「理想」を求めて 安部磯雄 |
| 1. 安部磯雄は同志社出身 |
安部磯雄(あべいそお/1865~1949)は、福岡県の出身で、早稲田大学教授をつとめ早稲田大学野球部を創設し、日本学生野球協会会長をつとめた「学生野球の父」として知られています。実は同志社(当時は同志社英学校)の卒業生であり、卒業後同志社で教員をし、岡山教会で4年間キリスト教の牧師を務めた後、アメリカ、ドイツへ留学しました。3年の留学から帰国後、再び同志社教員となり、その時、1898(明治31)年、学生たちとともに生協(当時は消費組合と呼ばれていました)をつくりました。これが日本で最初の学生生協として、今日では大学生協史の第1ページを飾っているのです。安部磯雄は「学生野球の父」だけでなく、いわば「大学生協の父」と呼んでも過言ではありません。 また昭和初期に日本で最初の無産政党代議士となり、社会大衆党中央委員長をつとめたことでも知られており、もう一つの彼の呼び方を「日本社会主義の父」というように、人々の社会的運動が制限されていた時代に、政治、経済はもちろん、教育、都市問題、女性解放、廃娼、産児制限、禁酒など多方面において民主主義と平和思想を主張しつづけ、彼自身は生涯「質素の生活、高遠の理想」を実践したキリスト者として、85年の生涯を歩んだのでした。その人生の基盤には以下の2つがあったと自叙伝の序に回顧しています。 「第一は明治維新の改革により私が比較的安楽なる生活から急転直下貧乏生活に墜落したこと、第二は京都同志社在学中基督教的博愛主義の感化を受けたことである。」 |
『社会主義者となるまで』 |
| 2. 同志社生徒時代の安部磯雄 |
安部磯雄は徳川幕府300年の歴史を閉じようとした1865(慶応元)年、福岡の新大工町に生まれ、1879(明治12)年、同志社生徒であった義兄浅香龍起のすすめで同志社英学校に入学しました。はじめは、同志社がキリスト教教育の学校だとも知らずに入学したのですが、同志社在学中にキリスト教的博愛主義と新島襄(1843~1890)の人格に感化されて、在学中の1882(明治15)年2月5日、新島本人から今出川通りの第一教会で洗礼を受けました。 5年生の時、アメリカ人教師のD・W・ラーネッド教授から経済学や政治学を学び、「貧乏救済、すなわち人類の物質的救済は経済学の研究に頼らねばならない」と考えたようです。ラーネッドの教えは安部の素地にはなりましたが、宗教的修養とキリスト教の宣伝を第1に考えた彼は、英学校を卒業後、9月15日、神学科に進学しました。ところが、神学科の授業内容に不満を感じ、10月27日に退学してしまいます。1884(明治17年)、19歳の秋のことでした。 |
![]() 1879(明治12)年、 同志社入学当時の14歳の写真(*1) |
![]() 1886(明治19)年 同志社の教員 (普通学校教師:歴史、地理、代数担当) となった時、19歳の写真(*2) |
故郷福岡に帰り、英学塾などで教師をしますが、まもなく同志社の教師(米国でいうチューター)として復帰するよう勧誘があり、同志社英学校普通科で歴史、地理、代数を担当します。その後、同志社教員から、岡山教会に赴任し教会活動のあと、アメリカ・コネチカット州のハートフォード神学校(内村鑑三も留学していました)に留学。さらにベルリン大学に学び、勉学途中でしたが岡山の教会の維持のため1895(明治25)年2月に帰国しました。 留学の二つの目的は、聖書の歴史的価値と社会問題の研究でしたが、ニューヨークを視察したとき、慈善的な社会事業によっては社会の貧困を根絶することは不可能と悟るようになりました。エドワード・べラミー(Edward Bellamy)という人の小説『ルッキング・バックワード』(Looking Backward)を読み、「ハッキリと社会問題解決の方法を会得することができた」のでした。キリスト教の新しい神学も学び、新進の社会主義者となって帰国した安部は、岡山教会を牧会しながら、社会問題に関する論文を精力的に発表しました。 |
| 3 再度の同志社での教鞭と日本で最初の大学生協 | ||
1897(明治30)年1月、安部は再び同志社の教員として復帰しました。留学で学んだ安部の理想とした社会主義を実践するため、有志の学生たちとともに同志社で消費組合を結成したのです。2年後には、かねてからの徴兵令をめぐる学校の方針問題などから同志社を辞めて上京し、以後、30年近く東京専門学校(1902年に早稲田大学と改称)の教員として教壇に立ちました。
安部磯雄が日本で最初の学生消費組合を結成した話は、婦人之友社・自由学園の創立者羽仁吉一・もと子夫妻が編集していた『家庭之友』(のちに『婦人之友』となり、現在も刊行中)という雑誌に談話として掲載されています。 「消費組合は日本の社会でもぜひ発達させたいものだと、久しく希望しております。(中略) 私が西洋から帰って来て一年ばかり後に、同志社でこの消費組合をやることを主張しました。スルト何しろ学校わきの二軒の商店が、学生相手に非常に暴利をむさぼっていましたから、皆が賛成してたちどころに成り立ちました。そこで我々が三、四円ずつの金を出して、ひと通りの品物を用意し、学生三人を定めの時間の間、かわるがわる番をさせることにしました。初めはだんだん景気がよかったのでありますが、現金制度であったので、月末になって学生のふところが淋しくなると、掛売りをやる隣の店にやっていく。スルト品物を安く売る、珈琲を御馳走する、…一生懸命学生の機嫌をとるのです。……ツマリこの組合は失敗に帰してしまいました。そして消費組合のあった間安売をした商店が、組合の解散と同時に、云ふまでもなく元の高売に返って仕舞った訳であります。」(1904年2月) 当時もっとも模範的な生協だった「ロッチデール公正先駆者組合」(1840年代、イギリス・ランカシャ地方の織物工たちが創立。本HPの「コープヒストリー」を参照)の方式を取り入れつつも、事業の経営にはたいへん苦労したようです。談話の締めくくりに、「加入者はすべて永遠の利益のために、組合の発達を熱心につとめねばなりません」と語っているのも、今のことばにおきかえるならば、「組合員の参加・運営・出資(発展)の継続性がもっとも大切です」ということでしょう。 安部が「学生消費組合をやろう」と主張した背景には、留学中にアメリカやイギリスの進んだ社会事業を目の当たりにし、特に大学セツルメント活動に関心を寄せたことにあると思われます。生涯を通して安部が目指し、「安部が考えた社会主義者」としての実践の第一歩であったといえましょう。 この消費組合の実践は、1898(明治31)年からのおよそ1年間と推測されます。安部は、学生たちの生活や勉学を助けるだけでなく、さらに広く、社会をよくしようと考え、そのために、まず学生たち、青年たち自身による協同組合活動に期待と理想を求めたのです。いずれにしても、同志社はわが国における学生消費組合発祥の地、揺籃の地であることには間違いありません。 安部の思想を示すものが、『社会問題解釈法』(1901年、東京専門学校出版部)と自叙伝『社会主義者となるまで』(1932年、改造社版)です。 『社会問題解釈法』は、当時の社会主義理論の最高峰を占めるものであったといわれています。この本のなかの第5章「自助的事業」で、彼は「自助的事業とは共働を意味す、共働主義の現はれたる四方面の一つ」として「消費組合」をとりあげています。 消費組合が「社会問題に対する最も有力有効なる解釈法」であること、その運営方法はロッチデールの労働者が実践したように原則的で合理的なものでなくてはならないこと、さらに消費組合の運動も、広い意味では社会変革の運動の環であると強調しているのです。 |
| 4. 安部の平和思想 |
安部の社会主義思想と平和主義思想が、その政策の形をとってあらわれたのが、1901(明治34)年5月18日に結成された社会民主党の宣言書です。 社会民主党は、安部磯雄・片山潜・幸徳秋水ら6名で結成され、片山らのアメリカの労働組合運動に影響を受けた流れ、安部らの社会主義協会の流れ、そして普通選挙運動の三大潮流が合流したものといわれています。幸徳を除く5人がキリスト教徒であることも見落とせません。 この宣言書は、安部が衆議一決で筆をとることになりました。理想綱領のなかでは、「人種の差別政治の異同にかかわらず、人類は皆同胞たりとの主義を拡張すること」「万国の平和を来す為には先ず軍備を全廃すること」などを掲げ、キリスト教、さらにトルストイの思想が如実にみられます。 当時の政府は、資本家と労働者間の階級対立の激化を押さえ、取り締まろうとして、治安警察法(後の治安維持法)違反だとして、この党の解散を命じました。 1904(明治37)年に入り、中国大陸での日露戦争の危機がふかまるにつれ、日本国内では主戦論者の声が高まり、ジャーナリズムもついに主戦論一色にぬりつぶされてゆきました。このさなか、安部らの社会主義協会は敢然として非戦の旗をあげました。非戦論を継続していくために週刊『平民新聞』を発行し、平民社を起こしました。安部も平民社に協力し、また同紙の「英文欄」を担当して海外の人々に呼びかけ、同じく日露戦争に反対していたトルストイと書簡の往復をしました。 『平民新聞』は海外の消費組合の事例や慶応義塾の消費組合を紹介し、読者のなかからは、自分たちで消費組合を設立したという報告も出てくるほどでした。先に紹介した安部の同志社での消費組合の談話も転載されています。 安部らの演説会活動は、私有財産の縮小や非戦を主張したことで時の政府からたび重なる弾圧を受けました。安部本人の演説はというと、「会員はつねに操行を正しくし、いやしくも粗暴のふるまいがあってはならぬ、殊に男女間の関係において謹慎すべきウンヌン」など、「まるでキリスト教伝道のようであった」と回想しているのはこの時、17歳の荒畑寒村(1887~1981)です。当時の社会主義者たちの人柄をあらわす興味ある記述です。 すべての人に選挙権を、と主張する普通選挙請願運動がもりあがってくると、当局の弾圧は容赦なく増し、『平民新聞』も発売禁止。ついに1904年、結社禁止を命ぜられました。大逆事件(1910年、幸徳秋水ら無政府主義者を逮捕起訴し、裁判非公開のまま12人が死刑に処せられた事件)以後、社会主義運動は「冬の時代」に入りました。安部もまた、政治活動から遠ざかったのでした。 |
| 5. ふたたび学生消費組合へ |
安部磯雄が『家庭之友』誌上で、同志社時代の消費組合について語ったことは先に書きましたが、その後の同志社生協ともまんざら無関係ではないことが浮かび上がってきます。 1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこって東京・横浜地方は焦土と化しました。大震災をきっかけに、医療、給食、託児など応急的な社会活動、大学生や労働者たちによるセツルメント活動がふたたび活発化したのです。 自由学園でも生徒たちが救護活動にあたり、これがひきがねとなって2年後には、高等科の生徒たちが「貧窮調査」に乗り出し、これを指導したのが、安部磯雄でした。 「安部先生は早速私どもの願いを聞いて下さったばかりでなく、私どもの考えたことはまったく新しい試みで…私どもの決心を励まして下さいました」(『自由学園の歴史 Ⅰ 雑司ヶ谷時代』1985年、婦人之友社) やがて生徒たちは、校内に二階建てのショップを建て、オート三輪車で在校生の家庭や地域の住宅へ商品の予約制度(今日の共同購入)をはじめたのでした。 同じ頃、早稲田大学、拓殖大学、東京帝国大学(赤門)、立教大学、明治大学(駿台)、明治学院(白金)の6大学の学生たちによって、東京学生消費組合(通称、学消)が創設されました。学消は、当時の産業組合法に則って認可を受けるために、賀川豊彦(1888~1960、大正期、大阪、神戸で消費組合設立に尽力し、戦後の日本生活協同組合連合会会長をつとめたキリスト教社会運動家)が組合長に就任し、安部も役員を引き受けました。東京学消が創設されたのは1926(大正15)年4月のことです。 そして同じ頃、同志社大学でも学生たちを中心にして、消費組合運動が起こっていました。賀川豊彦の校内伝道をきっかけに社会的キリスト教運動の「同志社労働者ミッション」が発足しました(1927年)。キリスト教精神を実際社会に実現しようという使命・ミッションに賛同した学生たちが立ち上がって、大学教職員向け組合であった「同志社購買組合」(1921年創立)を「同志社消費組合」に改組し、同志社女子専門学校(同志社女子大学の前身)や地域の婦人、家庭をも対象に、ロッチデール方式の購買事業を開始しました。 残念ながら、有終館全焼をきっかけにした学園騒動で、中心を担っていた教授、学生たちが大学を去り、組合は活動を市中に移し「京都家庭消費組合」として再出発した矢先に、こんどは意見の相違からふたつに分裂してしまいました。が、熱心な組合員は、模範としていた家庭購買組合(1919年、東大YMCAと日本女子大桜楓会が中心になって創立。理事長の吉野作造(1878~1933)は、安部とともに日本初の合法無産政党である社会民衆党をつくった)や自由学園消費組合を見学し、京都に帰って報告会を開いています。 安部や羽仁らが『婦人之友』の誌上座談会で、「小より大へ」「孤立より協力の社会へ」と言えば、京都の読者たちはこれに応じて、同志社の消費組合を応援しました。 |
| 6. 「質素の生活、高遠の理想」 |
安部は、社会主義者として、キリスト者として、人道主義的立場から日露戦争をはじめとする帝国主義戦争に一貫して反対の立場をとり、無抵抗主義と軍備全廃、中立主義の絶対主義的平和主義を主唱するとともに、穏健で着実な実践活動を展開しました。 その性格は、極めて温厚で人類愛にあふれ、徹底した理想主義の言動から、その名前をもじって「安部リソオ(理想)」と称されるほどでした。色紙・掛軸によく「質素之生活、高遠之理想」(イギリスの詩人・ワーズワースの詩の一節)「自由平等博愛」という言葉を揮毫したことにも、その姿勢をうかがうことができます。 このような安部磯雄は、晩年に母校の同志社で後輩の学生たちに講演するときは、いつも目に涙をうかべながら「私は新島先生にお目にかかったとき〝安部さん、よくやってくれました〟と申される先生のお言葉をいただくのが、唯一の望みであります」というのが、口癖であったと伝えられています。当然のこととして、天上の恩師新島襄から、固い握手をもって迎えられたことでしょう。 安部磯雄は同志社でのキリスト教的博愛主義の感化と留学での体験をベースに、同志社で消費組合を起こして、彼流の社会主義者として平和、理想をめざし、大学生協の発展に惜しみないエールを送ったのです。 |
![]() 1929(昭和4)年シアトルでの安部磯雄 (自叙伝『社会主義者となるまで』改造社版[1932(昭和7)年]の表紙、64歳の写真)(*4) |
![]() 1931(昭和6)年『婦人之友』7月号 駒尾夫人、家族との写真。66歳(*5) |
写真の提供・出典 |
| (参考文献) 安部磯雄『社会問題解釈法』(早稲田叢書、東京専門学校出版部、1901年、『近代日本キリスト教名著選集 第IV期 キリスト教と社会・国家篇 29』日本図書センター、2004年) 安部磯雄『社会主義者となるまで』(改造社、1932年) 安部磯雄「私の同志社在学時代」(『改造』第9巻第3号、1927年3月) 向山寛夫『東京学生消費組合史』(中央経済研究所、1984年11月) 森中章光「新島襄先生と安部磯雄先生」(『新島研究』第71号、1987年11月) 安部磯雄研究会『安部磯雄の研究』(早稲田大学社会科学研究所、1990年9月 松田義男編「安部磯雄著作目 録」所収) 太田雅夫「安部磯雄の平和思想」(桃山学院大学教育研究所『研究紀要』第2号、1993年) 同志社・同志社山脈編集委員会『同志社山脈 113人のプロフィール』(晃洋書房、2003年1月) 山泉進編集・解題『安部磯雄 平民社百年コレクション 第3巻』(論創社、2003年2月) 婦人之友社建業100周年記念『読者と歩んだ1世紀展』(婦人之友社、2003年) Doshisha Faculty Records 1879~1895(同志社社史資料室、2004年) |




