デイヴィスってだあれ? (April 7, 2008 Davis Cafe'の開店に際してのスピーチ)

今から二十年以上前のことですが、同志社大学がこの京田辺校地を本気になって使うことを決断し、沢山の教室棟、図書館、体育館等が一挙に建てられて、大学として大躍進する時期にさしかかりました。いよいよ京田辺校地での授業が次の年に始まるというとき、当時の松山義則総長が建物の名前をつけるための委員会を設置され、私も文学部から委員として出席いたしました。同志社はキリスト教主義大学ですから、なるべく聖書から名前を取ってくるように、という方針が示されていたのでしたが、私は無理をしてへんてこな名前をつけるよりも、むしろ同志社の功労者の名前をつけるべきだと確信していました。そこで図書館はラーネッド図書館、体育館兼講堂はデイヴィス記念館がよい、と提案しましたところ、木枝燦学長が「ラーネッド図書館は非常によい」と、さっそく賛成の声を挙げられたことを思い出します。聖書にデイヴィスやラーネッドという名前はないではないか、と異議を唱えた委員もいましたが、私の意見は幸いにして受け入れられ、私は京田辺校地の二つの重要な建物の名前の提案者になるという光栄に浴したのであります。

そこで今日の主題「デイヴィスってだあれ?」であります。デイヴィスとは、一体どういう人なのでしょうか? 実はすべての同志社人は、デイヴィスという名前を忘れてはならないのであります。明治8年11月に京都で同志社英学校がスタートしたのでありますが、その創設期におけるきわめて困難な歴史的事情を公正に点検いたしますと、同志社の創立者は三人存在する、といわざるをえないのであります。すなわち中心的な働きをしたのはもちろん新島襄でありましたが、もしも彼以外にもう二人の人物がいなかったならば、同志社は到底出発することはできませんでした。その一人は旧会津藩士で、京都府の顧問であった山本覚馬です。山本覚馬は京都御所と大本山相国寺の間にあった、旧薩摩屋敷を新島に斡旋して、現在の今出川校地を確保させました。当時の京都に外国人は住むことができなかったのですが、山本は京都府の最高実力者を説得して、同志社で教える外国人教員が京都に住めるようにたのでありました。そしてもう一人が今日の主題であるデイヴィスです。デイヴィスはアメリカン・ボードという、新島を支援したキリスト教宣教団体の宣教師として、妻子を連れて京都に入り、新島とともに最初の同志社英学校の教員になりました。新島と山本とデイヴィス、この三人のうち、誰一人が欠けても、同志社英学校はスタートできませんでした。山本がいなければ同志社は京都に校地を確保して、私立学校設置の認可をとりつけることはできませんでした。デイヴィスがいなければ同志社英学校はアメリカ人教師を雇えなかったわけで、学校の体裁はととのわず、生徒を集めることもできなかった筈です。デイヴィスが肩入れして、同志社英学校の重要さを本国の宣教団体に承認させなければ、アメリカン・ボードによる財政支援と教員の派遣は得られず、ラーネッドを初めとする教師たちは同志社に来ることができませんでした。同志社は最初の十二年間、アメリカン・ボードの経営するミッション・スクールだったのです。同志社は千年に亘って都であった京都という特別の町に設置された学校でしたから、日本人である新島が校長を務めていましたけれども、それはむしろ名目上のことで、実質的にはデイヴィスが校長だったとさえ言えるのであります。デイヴィスは新島よりも五歳年長であり、すでにアメリカの南北戦争に従軍し、瀕死の重傷を負うという経験もした人でありました。

さて、二十一世紀の現在は宣教師の影の薄い時代です。日本は富める国になるにつれて、もはや宣教師を必要としない国と見做されるようになりました。しかし私が戦後同志社で学生生活を送っておりました時期、1940年代の後半から1950年代の前半にかけての時期は、敗戦後のへとへとの時期でありまして、同志社には何人もの宣教師がいました。私は文学部英文学科で、グラント教授という宣教師の先生からアメリカ文学の歴史を習いました。同志社の女子部にはデントン先生という、恐ろしい女性宣教師がおられ、彼女は日本を愛するあまり、太平洋戦争が起こってもアメリカに帰国することを拒否し、女子部のキャンパスに戦時中も住み続けたアメリカの女丈夫でありました。デントン先生の有名な言葉をご存知ですか? デントンいわく、「世界で一番よい国は日本である。日本で一番よい町は京都である。京都で一番よい学校は同志社である。同志社で一番よい学校は女学校である。」この自信、この執念と熱情に、私は完全に脱帽するものであります。デントン先生のおかげで今出川キャンパスの花である栄光館が建設され、その中には京都最初のパイプオルガンが設置されたのでありました。デイヴィス、ラーネッド、デントン、グラント。これらの人々はすべてアメリカン・ボードの宣教師でした。いな、新島襄自身も、アメリカン・ボード宣教師として帰国したのでありました。アメリカン・ボードとの血のつながった関係によって、同志社はその幼年期を過したといえます。デイヴィスは自分に給料を払って派遣してくれているアメリカン・ボードに対し、常に同志社の立場に立って、同志社のためにもっと金を出せ、もっと人をよこせと、訴え続けてきた人であります。

彼の正式の名前はJerome Dean Davis です。デイヴィスはニュー・ヨーク州の田舎のグロートンという町に、1838年1月17日に生まれました。父は開拓者の一人として農業に従事していましたが、後にイリノイ州に移りました。デイヴィスは13歳のときに洗礼を受けてクリスチャンとなり、忠実に教会生活を送るようになり、キリスト教信仰を深めていきました。家が貧しかったので、学校にしっかりと通えない時期もありましたが、当時大学に進学するのに必要だったラテン語とギリシア語は殆ど独学で勉強いたしました。デイヴィスの入った大学はウィスコンシン州のビロイト大学で、学資はすべて自分で稼がなくてはなりませんでした。在学中に南北戦争が勃発しました。デイヴィスはリンカン大統領のアピールに答えて、大学を休学し、イリノイ第52義勇軍に加わりました。義勇軍というのはボランティア兵士の集りです。戦争の2年目にはテネシー州南部シャイローの戦いに巻き込まれていきました。これは南北戦争で最も陰惨な戦いとして知られています。デイヴィスは連隊旗手であり、目印しとして最も砲火を受けやすい位置にいました。デイヴィス伍長は日記の中に、まるで南軍全体が自分をめがけて発砲しているように思えた、と書いています。ついに敵弾が彼の左の大腿部を貫通し、彼は蜂の巣のようにぼろぼろになった連隊旗を一本の木にもたれさせたあとで、遂にうずくまってしまいました。彼は動脈の上を包帯できつくしばり、止血をしたあと、意識を失いました。幸いデイヴィスは一命を取り留め、仲間に助け出されて、病院に入れられ、故郷で療養することができました。

デイヴィスは回復すると軍隊に復帰し、南北戦争が終るころには中佐にまで進級していました。復員後、ビロイト大学に戻って残りの単位を取って卒業し、シカゴ神学校に入って牧師になるための準備をしました。彼はワイオミング州で開拓伝道に従事し、約2年間働きました。しかし彼はさらに海外での宣教を志すようになり、アメリカン・ボードの宣教師を志願して受け入れられ、行き先として日本を選びました。1871年10月にアメリカン・ボードはマサチューセッツ州セイラムで年次大会を開いたとき、デイヴィスはそれに出席しました。それは彼が日本に向けて旅立つ直前のことでした。その時一人の日本人が群集をかきわけてデイヴィスに近付いてきました。日本人の問い掛けに対して、デイヴィスは、私はこれから日本に行くところです、と答えますと、日本人はデイヴィスの手を握りしめ、両眼に涙を浮かべて、お目にかかれて本当に嬉しいです、船旅の安全を祈ります、私もまた遠からず日本に帰って働きます、といいました。この日本人こそは、アンドーヴァー神学校在学中の新島襄その人でありました。両者はこうして初めて対面致しました。

明治4年の暮に日本に到着したデイヴィスは、アメリカン・ボード宣教師としてはグリーン、ギューリックに次いで3人目の宣教師でした。開港地の神戸におちつき、神戸で日本語の勉強をしながら、日本の青年たちに英語と聖書を教えていました。こうして3年間を神戸ですごしていたところに、新島襄が帰国し、仲間の宣教師のいる関西へやってきました。新島は早速キリスト教主義の英学校を作る計画を宣教師に持ち出しました。しかし宣教師たちの反応は分かれました。つまり、宣教師は聖書に基づき福音を宣べ伝えることが本来の仕事であるので、学校教育は宣教師本来の仕事でない、とする考え方があったからです。しかしデイヴィスは神戸で3年間日本の青年たちに接触してみて、日本という国では、効果的な宣教のためには、まず教育から始めなくてははならないことを痛感していましたから、新島の提案にいち早く賛成し、学校設置が京都と決まると、家族連れで京都に行くことを決意したのでした。新島にとって、これは百万の味方を得たも同然でした。

同志社英学校の先生は最初、新島とデイヴィスの二人だけでした。デイヴィスは初めの頃、学校経営の面では新島を指導したようです。新島ときびしく対立したこともあります。しかし熟慮の末、新島の考え方に従いました。デイヴィスと新島とは二人三脚でした。デイヴィスはキリスト教神学の教師であり、続いてやってきた数人の同志社の宣教師たちの間では重鎮でした。新島が1890年に亡くなると、デイヴィスは友人新島の伝記をいち早く執筆し、それがその後の新島伝のモデルとなったことは誰しも認めるところです。新島なきあと、同志社は生き残るために政府の方針に妥協し、キリスト教主義の看板をおろしたと思われるところまで行ったとき、デイヴィスは敢然と立ち上がって、当時の同志社理事会と戦い、理事たちを総辞職させました。そしてその後の同志社の再建にも尽くしましたが、それらに詳しくふれることは、また日を改めた上で、させて頂きたいと思います。

同志社生活協同組合